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大阪高等裁判所 昭和63年(ネ)65号 判決

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人は、控訴人に対して金五八二万円を支払え。

三  訴訟費用は、第一、二審を通じて被控訴人の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴の趣旨

1  主文一ないし三項同旨

2  仮執行宣言

二  控訴の趣旨に対する答弁

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は、控訴人の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  控訴人と被控訴人との間に昭和六〇年四月二二日神戸地方裁判所尼崎支部昭和五五年(ワ)第六八九号請求異議事件(以下「本件異議訴訟」という)において、次のとおり和解(以下「本件和解」という)が成立した。

(一) 被控訴人は、控訴人に対して貸金五五〇万円及び給料三二万円(昭和五五年一一月分)の合計五八二万円の支払い義務(以下、被控訴人の控訴人に対する債務を「本件債務」、控訴人の被控訴人に対する債権を「本件債権」という)があることを確認する。

(二) 控訴人は、被控訴人に対して神戸地方法務局所属公証人石原武夫作成昭和五三年第一七九一号金銭消費貸借契約公正証書(以下「本件公正証書」という)に基づいて強制執行をしないことを約する。

(三) 控訴人と被控訴人との間には、この和解条項に定めるほか、何らの債権債務のないことを相互に確認する。

(四) 当事者双方は、本日本件異議訴訟を終了させることに合意する。

(五) 訴訟費用は、各自弁とする。

2  控訴人は、被控訴人に対して昭和六二年三月一二日到達の本件訴状でもって本件債務金五八二万円の支払を催告した。

3  よって、控訴人は、被控訴人に対して本件債務金五八二万円の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実は不知。

三  抗弁

1  虚偽表示

被控訴人と控訴人は、本件和解をする際、いずれも本件債務を負担する意思がないのに、その意思があるもののように仮装することに合意した。

すなわち、もともと本件公正証書は、当時の被控訴人代表者芳野哲郎(以下「芳野」という)と控訴人とが、相謀り被控訴人側の労働組合対策のために架空の債権を真実存在するが如くに記載したものであった。しかるに、控訴人は、その作成目的を逸脱して動産差押の執行申立に及んだので、被控訴人において本件公正証書につきその債務の不存在または無効を理由に本件異議訴訟を提起した。ところが、被控訴人が他から破産申立を受け、その審理の進行を待つために本件異議訴訟の進行に日時を費やすうちに、被控訴人には価値ある動産もなくなり、事実上動産執行ができない状態となった。しかし、被控訴人は、破産申立がなされると、当時進行中の営業譲渡の交渉が妨害されるおそれも予想され、同訴訟を維持していたところ、控訴人から税金対策上必要なので一定額の債務を確認した形式を整えてもらいたいと申し込まれ、税金対策の目的にのみ使用するという約束で真実債務が存在しないにもかかわらず、本件債務の存在を認める和解をしたものである。

2  心裡留保

控訴人は、真実は本件債権を税金対策のために使用するのみならず、後日被控訴人に対して行使する意思を有していながら、それを秘し、被控訴人に対して税金対策の目的にのみ使用する旨述べて本件和解をしたものである。したがって、控訴人は、被控訴人に対して本件和解に基づき本件債権の支払いを請求することはできない。

3  自然債務

仮に、以上が認められないとしても、控訴人は、被控訴人に対して本件債権に基づき強制執行をしないことはもちろん、裁判により履行を求めることをしないことを約束した。したがって、本件債務は、自然債務であるから、控訴人の請求は許されない。

四  抗弁に対する認否

抗弁事実はすべて否認する。

第三  証拠(省略)

理由

一  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  そこで、抗弁について検討する。

1  本件和解成立に至る経過について

成立に争いがない甲第一号証の一、第三号証、乙第一、二号証、第三、四号証の各一、二、第五号証、第六号証の一、二、第八号証、第九号証の一ないし三、第一〇号証、原審における被控訴人代表者本人尋問の結果、当審証人川窪仁師の証言(いずれも後記措信しない部分を除く)、原審及び当審における控訴人本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると、以下の事実が認められ、前記乙第五号証の記載並びに前記の被控訴人代表者及び当審証人川窪仁師の各供述中、右認定に反する部分は前掲各証拠に照らして措信しがたい。

(一)  被控訴人の元代表者芳野は、昭和五三年頃労使紛争のために被控訴人の労働組合(以下「組合」という)により長期間にわたって売上金の納金管理を行われて被控訴人の経営が苦境にあったので、元従業員であり、芳野の友人でもある控訴人に対して対応策を相談したところ、営業用自動車(タクシー)の差押により組合に対抗することを提案された。被控訴人は、昭和四八年頃より運転資金が不足するときには控訴人から融資を受けており、昭和五三年当時の残存債務額については必ずしも両者間で一致しているわけではなかった(後に、被控訴人は控訴人に対して不当利得返還請求訴訟を提起した。神戸地方裁判所尼崎支部昭和五五年(ワ)第六六四号事件)が、ともかくも右目的を達するために控訴人との間で、控訴人が被控訴人に対して九六〇万円の貸金債権を有することに合意し、同年八月四日控訴人の間で右債権を被担保債権として右営業用自動車に対して抵当権を設定し、また同年九月二二日公証人に対して右貸金債権につき本件公正証書の作成を嘱託した。

(二)  被控訴人と組合は、納金管理スト終結に伴い、昭和五四年三月二八日労使協定を締結した。ところが、控訴人は、被控訴人の経営陣に加わることを企て、経営参加のための交渉を有利に進展させるために本件公正証書に基づいて営業用自動車に対して強制執行をしてきた。芳野は、やむなく控訴人の要求を入れて同年四月初旬頃控訴人を被控訴人の取締役にした。控訴人は、取締役に就任するにあたり、組合に対して自己の債権でもって被控訴人の財産に対して強制執行をしない旨約束した。

(三)  控訴人は、取締役に就任後間もなく自己の腹心である組合の役員を管理職として登用しようとしたので再び労使紛争が発生し、組合が昭和五四年四月二三日から無期限ストを行うなど混乱が続いた。控訴人は、昭和五五年六月いったん取締役を退任したが、同年一一月一五日開催された被控訴人の株主総会において取締役に選任されなかったので、取締役復帰の交渉に圧力をかけるために同月一九日本件公正証書に基づいて被控訴人の財産に対して強制執行をした。

(四)  被控訴人は、控訴人が当初の約束に反して本件公正証書に基づき有体動産差押の執行申立に及んだので、同年一一月二七日同尼崎支部に対して控訴人を被告として本件公正証書記載の債務が不存在または無効であるとの理由で本件異議訴訟を提起し、同年一二月六日動産類に対する執行停止決定を、同月一九日本件公正証書による強制執行停止決定を得た。

(五)  ところが、控訴人は、昭和五六年二月二七日武田元正をして一二〇万円の債権で被控訴人の破産申立て(同年一二月取り下げ)をさせたり、同年三月一八日組合を煽って納金管理ストをさせたり、被控訴人の営業を混乱に陥れた。

(六)  このために、昭和六〇年初め頃の被控訴人の経営内容は、負債として約五五〇〇万円の一般債権者に対する債務と約四億円の公租公課が存在しているが、営業用自動車は既に車検期間を過ぎているうえ租税債権等により差し押さえられているので資産価値がなく、自動車事業の免許が唯一の価値ある資産という状態であった。

(七)  昭和五七年頃、組合の委員長であった岡崎らから被控訴人に対する破産の申立がなされ、破産債権の存否をめぐって争われていた。本件異議訴訟の審理は、その結果を待つために実質上進行しなかったが、昭和五九年末頃破産債権が存在しない旨の判決の確定を機に進行し始めた。そこで、被控訴人は、兵庫県地方労働委員会の不当労働行為の審問手続において本件公正証書記載の債務が仮装、不存在であると証言した芳野を本件異議訴訟の証人として申請する準備をしていたところ、昭和六〇年四月頃控訴人から債務の承認を求める和解案の提示を受けた。

(八)  被控訴人は、当時和光タクシー株式会社との間で進展中であった一般乗用旅客自動車運送事業の譲渡(以下「営業譲渡」という)の交渉に支障を来さないかぎり債務を承認しても格別不利益はなく、かえって控訴人との紛争を終息させることによって営業譲渡の交渉の妨害をなくさせる利点もあると考えて右提案に応じた。そして、控訴人と被控訴人との間で同月二二日の本件異議訴訟第二六回口頭弁論期日において、請求原因1(一)ないし(五)記載のとおりの内容の本件和解が成立した(以下、本件和解の各条項を「本件条項(一)」などと略記する。)。控訴人と被控訴人とは同日本件和解を補充するために右和解による債権(本件債権)に基づき破産、和議の申立等をしないこと、本件債権をもって営業譲渡手続に支障を来す一切の行為をしないこと、本件債権を第三者に譲渡する場合は譲受人に対して右制約が存することを告知することを明記した覚書(乙第二号証、以下「本件覚書」という)を交わした。

2  虚偽表示について

被控訴人は、本件公正証書記載の債務自体が仮装されたものであるうえに本件債権は控訴人において税務上損金処理をするために作られたもので、被控訴人に債務を負担する意思はなく、控訴人もこれを知っていたものであるから、本件債務は通謀虚偽表示により無効である旨主張する。そこで、この点について検討する。

前記認定事実によれば、被控訴人は一貫して控訴人に対する債務の存在につき争っていたにもかかわらず、営業譲渡交渉の妨害を避けるために本件和解に応じたのであるから、被控訴人にとっては本件和解の主たる目的が本件条項(二)、(四)の取得にあり、その主観においては本件債務の確認を単に形式上のものとする意思であったように思われなくもない。

しかしながら、前記認定のとおり、(一)本件公正証書記載の債権債務は、その額に争いが存しつつも幾らかは存在し、全く仮装のものであったとまでは認められなく(この点、被控訴人は、乙第五号証中のその旨の供述記載部分、乙第六号証の二及び原審における被控訴人代表者の供述を援用するが、右は原審及び当審における控訴人本人尋問の結果に照らしてたやすく措信し難く、かえって成立に争いのない甲第四号証及び右控訴人本人尋問の結果によると、本件異議訴訟の過程においても控訴人は本件公正証書記載の債権の現存することの立証に努めていたことが認められ、これと弁論の全趣旨によれば、本件公正証書作成の主たる目的が組合対策としての差押のためにあったとしても、控訴人において真実幾らかの債権を有していたためにこれを債務名義化したものと認められる)、(二) 本件異議訴訟においても本件公正証書記載の債権債務の存否がその額の確定を含めて実質的に主要な争点となっていたのに、控訴人においては貸金債権を五五〇万円に減額するとともに、当時控訴人においてもその存在を明らかに争っていなかったと認められる給料債権三二万円を新たに加算して、合計五八二万円の債権として認めさせており、(三) さらに、本件覚書により本件債権の第三者への譲渡の可能性も考慮されていることからすると、控訴人は債権の存否及び額について具体的に取り決めることを求めていたと認められるのであって、被控訴人主張のように税務上損金処理をするためのみというのであれば右のように債権額を減ずる必要性は乏しく、本件覚書においてわざわざ債権の譲渡可能性を規定する必要もなかったといわねばならない。

そうすると、控訴人が税務対策を本件和解の目的の一部にしていたとしても、本件債権自体の不存在を認識しつつあえて被控訴人との通謀によって本件条項(一)記載の虚偽の確認条項を作出したものとはとうてい認められなく、他に被控訴人主張の事実を認めるに足りる証拠はない。

3  心裡留保

被控訴人は、控訴人が被控訴人に対して本件債権を税金対策のためにのみ使用すると約した旨主張し、これに沿う原審における被控訴人代表者及び当審証人川窪仁師の各供述があるが、前記証拠に照らして措信しえず、他に右主張事実を認めるに足りる証拠はない。なお、被控訴人があえて「心裡留保」と主張するので付加する。前記認定事実によれば、たとえ、表意者たる被控訴人の真意が本件債務の不存在にあったとしても、相手方たる控訴人において、これを知っていたとは認められない(控訴人を表意者に擬し、民法九四条の適用を云々する被控訴人の律擬は本件事実関係に適切でない。)。

4  自然債務

(一)  被控訴人は、本件債務は自然債務であると主張する。ところで、いわゆる自然債務とは、不訴求の合意がある債務または特殊の事情から生じたもので裁判上請求しえない債務をいい、不執行の合意がある債務すなわちいわゆる「責任なき債務」とは区別すべきものである。

本件についてみるに、前記認定のとおり、本件債務は貸金及び給料債権を纒めたものであるから、性質上の自然債務に当たらないことはいうまでもない。

しかして、前記認定の本件条項(二)、(四)項、本件覚書の合意の存在及び本件和解に至る経過を総合すると、被控訴人が一貫して控訴人に対する債務の不存在を主張して争っていながら自己の主張立証が尽くされないまま本件公正証書の貸金債務の半額を認め、本件和解にたやすく応じたのは、本件和解及び覚書の合意の成立によって控訴人から被控訴人に対する一般執行たる破産、和議等の申立が防げるだけでなく、控訴人から個別執行たる強制執行も受けることのない了解を得たと確信したからにほかならず、他方控訴人においても、被控訴人が控訴人に対する債務の不存在を主張して債務名義の排除を求めて争っていたこと及び被控訴人には価値ある資産がなく、一般債権者に優先する多額の公租公課があることを熟知しながら本件和解を申し出たのは、被控訴人側が控訴人からもはや本件債権に基づき強制執行を受けることはないと考えて本件和解に応じたものであるとの認識を有していたものと認められ、そうすると、控訴人と被控訴人間に、本件和解において本件債権を認める条項を作成するにつき黙示に不執行の合意が成立したものと推認することができる。しかしながら、進んで不訴求の合意にまで及んでいたことを認めるのは困難である。けだし、いやしくも実体上請求権の認められる債権につき裁判上の請求もしないという不訴求の合意の存在を認めることは、余程明示の確証が得られないかぎり、たやすくこれをなしうるものではないからである。よって、被控訴人の自然債務の主張は失当であり、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。

(二)  そして、右不執行の合意は、実体法からすると債権に執行力・掴取力の伴わないいわゆる「責任なき債務」が作られたものと解され、したがって、かような不執行の合意のある債権は、これに基づき強制執行をすることはできないが、債務者に対して裁判により訴求することは妨げられず、裁判所はその請求にして理由のあるときは、実体判決(給付判決)をなすべきものと解される。

三  ところで、民訴法三八八条は、訴を不適法として却下した一審判決を取り消す場合には、審級の利益を保障するために控訴裁判所は事件を一審裁判所に差し戻すことを要する旨定めているが、審級の利益を保護すべき実質的理由のない場合または既に審級の利益が与えられた場合には、あえて一審裁判所に事件を差し戻す必要はないものと解するのが相当である。

これを本件についてみるに、原審は自然債務を理由に訴を不適法として却下しているが、自然債務の成否を判断する過程において、本件和解に至る経過、和解の基礎となった債務の内容等につき審理がなされ、本案判決をするに熟する程度の事実審理がなされたものと認められるから、実質的にみて既に審級の利益が与えられているものと解するのが相当である。したがって、当裁判所は、本件訴を原審に差し戻すことなく、実体判断をすることにする。

四  よって、控訴人の本訴請求は正当として認容すべきところ、本件訴を却下した原判決は失当で本件控訴は理由があるから、原判決を取り消し、民訴法三八六条、九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

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